遺伝子が操作できるようになったり、赤ちゃんがデザインできるような時代にボクたちは生きています。今、生殖補助医療で生まれてくる赤ちゃんは、24人に1人と言われています。
ケイタイやYouTubeやウィッキでボクたちは便利になり、キャッシュレス社会と言われていますが、独裁的な国家権力がその情報のねっこを握ったり、トップにいる人物がフェイクを連呼し出したら、(もうなっている?)、いったい、どうなるでしょう。
ロボットやドローンの未来は、明るいものだけでしょうか。AIは、「鉄腕アトムの形而上学」、つまりシンギュラリティと呼ばれるポイントまで、あと少しです。戦争でも、人は機械に殺される時代になっています。
スウェーデンのグレタさんは国連でホンキで怒っていましたが、地球環境はかなりアブナイところまで来ています。311でまき散らされた放射能は公害です。ビニール袋がお腹にたまったイルカくんたちや、鼻にストローがささったウミガメは、ちょっと、見るに耐えません。日本でも災害が年々ひどくなっているのに、いまさら経済なんて・・・ってところは、グレタさんに同意しています。彼女より歳をとっている分だけ、ボクには絶望と諦めと疲れ、それにこれまでの敗北感があるので、もう、ああいうふうには、怒れないのだけど、キミたちに、希望とか、夢だけは、託したいと思っています。ワンピースでいうなら、サンジかな。キングダムの晶文君とか、まあもやしもんの樹教授、みたいなもんです。
で、こんな科学技術って、いったい、何なんでしょう。まあ、「便利」ではあります。でも、それはホントに、「いい」ことなのでしょう。それとも、根源的に「邪悪」だったり、「ちょっと無理」を抱えたものなのでしょうか。グレタさんに向かって言うなら、「人類の抱えている現代の問題の根本は、科学技術にある」と。だからそこらをちゃんと考えようと、ツカハラ先生は言っておきます。
まあ、しかし、アカデミアにいるツカハラ先生は、直接的行動に訴えることは、しません。むしろ、このことを、じっくり考える、勉強してみたり、研究したり、調査したり比較したり、いろいろな人の意見を聞いたり、問題の現場を見に行ったり、そういうことしながら、先人たちの智慧や失敗を、しっかりと学びに行きます。
それで、まずは、このような初問です。「科学技術による問題とかは、いつ始まったのでしょう。どこで、だれが?」。そんなことを考えるのが科学史です。
そもそも科学の起源は、ガリレオです。彼が「それでも地球は回るぅ」と言ったためにカトリック教会に怒られたことは、けっこう大きな現代科学技術への転換点になっています。ダーウィンは、「ニンゲンはお猿さんから進化したのだぁ」と言いながらも、本人はけっこうビビっていました。
「地球は回っている」とか、「ニンゲンは進化した」とか、そういうことが、今の私たちの「文明」の基礎になっています。ドローンもインターネットも、クローンも遺伝子操作も、ガリレオとかダーウィンの末裔です。
でも、それはそれで、いいのでしょうか。ここで、その方向を、考え直すところにワタシたちは、もう、来ています。グレタさんが怒っていたように。
これを根本的な面から研究するのが、科学技術史です。科学技術史という学問分野は、科学や技術そのものを学ぶのではなく、それが社会や歴史の中で、どのように形成されてきたのかについて研究します。それはなぜか? 今の科学技術をどうしようと、考えるために、なぜ今がこのようになったのかを知るためです。よく、言うでしょう、敵を知るには、己を知れ、とか。
あるいはダイムラー・ベンツや新幹線、エジソンの電灯の発明の話や、ミシンや洋服やトンカツや牛乳やヨーグルトが生まれた歴史の話など、社会的な(政治経済を含む)視線の広がりをもって、微に入り細にわたる事を調べてみるのが科学技術史です。けっこう楽しいですよ。
これに対して科学社会学の分野では、科学とはなにか、技術とは何か、医学はいったい何をしているのだということを、社会的・思想的・文化的、そして経済や政治の面からも検討します。例えば原発は動かすべきか、臓器移植はいいことなのか検討するのも、この分野です。現代的には、STS(科学技術社会論)という学問分野にもなっています。
3.11から地球環境研究、それに蘭学まで
私がこれまでやってきたことは、まず日本の大学では化学(無機分析)でしたけど、その後、オランダに留学して医学部で博士号をとって(医学形而上学という日本にはない分野でした)、イギリスの大学に勤めて(東アジア科学史)、それで日本に帰ってきて、文学部で日本史の先生になって、今は国際文化学とか、理系も文系も一緒くたなところで、いろいろやっています。
特に論文を多く書いているのは、地球温暖化・気候変動に関する気象史・気候の再現、3.11東日本大震災とポスト・ノーマル・サイエンスなどです。望遠鏡と顕微鏡(科学機器)の歴史、蘭学、歴史観とか持続可能な開発のための教育(ESDやSDGです)、それに生命の商品化(バイオ・キャピタル)の問題なども。
日本についての科学史研究では、蘭学に取り組んでいます。杉田玄白の『解体新書』や『蘭学ことはじめ』など、蘭学を大きな政治文脈や思想交流の中に位置づけると、何が見えるのか。そして世界史の中での蘭学の意味はなにか。そんなことを考え、またそれは12世紀ルネサンスと対比が可能では、なんて考えながら研究しています。
科学や技術・医学は、社会を動かす、強力な「エンジン」の役割があります。でも、この「近代」のエンジンは、どんどん、大きくなっているのでは? われわれの研究する科学社会学や科学技術史、それにSTS(科学技術社会論)は、エンジンになることを目指すのではなく、暴走を制御する「ブレーキ」や、方向をコントロールする「ハンドル」、ときには心地の良さを追求する「シート」とか「カーエアコン」になることを目指します。
そういう意味でこの分野は、社会に対して「根本的で本質的な」さらに「ラジカルな」変化をもたらす、ってのは、言い過ぎかもしれないけど、こうしちゃあイケナイ、とかいう提言くらいはできるでしょうし、グレタさんほどでもないけど、地球環境への配慮はしたいと思っています。
一般的な傾向は?
- ●主な業種は→メーカー、商社、マスコミ、コンサル、メーカー、NGO/NPOなど
- ●主な職種は→営業職、記者・ディレクター、映画監督、アドバイザー、企画など
- ●業務の特徴は→みんな、世界の一線で働いています
分野はどう活かされる?
世界的な廃棄物処理の動向と政策アドヴォカシー(政策提言)、水資源の民営化に対する検証、などなど
経済も環境も、もうパンパンで、地球くんは、ちょっと、今キビシイ状況にあるように思います。それでも科学・技術や医学については、もっともっとと、なんだか無限の拡大と進歩、そして「万能」が希求されているようです。でもほんとうにそれでいいのか考えてみてください。
科学や技術は「すごい」し、「便利」です。それはいわゆる「人類の遺産」です。近代医学が発達しなかったら、結核やコレラはおろか、インフルエンザでも、人びとはばたばた死んでいました。でも、「科学はすごいなぁ」とか、「科学はエライんだ!」と誇るだけでいいのでしょうか。20世紀には原爆や公害、そして21世紀には原発や地球環境問題で、人々は、大きな「メーワク」を被っています。このメーワクは、「科学・技術」によるものであると考えられます。これって、どうしたらいいのだろうか。ちょっと、「考え方を変えてみる」ということが必要です。
神戸大学では「国際文化学部」というところに所属していますが、「国際文化」として、科学・技術・医学をとらえるのは、重要な観点を提供します。これは、いくつかの側面があります。
・科学・技術・医学は、「国際関係」の中で、伝播・受容されてきたこと。例えば、インドへの携帯電話の普及や、中国へのビールの売り込みなどのように、「経済」や「文化」が大きなファクターになることなど、非常に重要な研究テーマを含むことです。また「蘭学」や「洋学」を通じて、オランダの科学技術が、江戸期の日本に伝わったというのも、重要なテーマです。
・科学・技術・医学は、「国際政治」の問題であること。これは、外交問題でもあることは、多く見られます。いわゆる、「テクノ・ディプロマシー」とも呼ばれます。例えば、原発や原発技術も、政治の交渉の対象や道具になっていますし、軍事技術が国際政治の対象であることは、言うまでもありません。
・科学・技術・医学は、「国際的な文化(カルチャー)や芸術(アート)」の問題ともなっていること。この分野は、「テクノ・カルチュラル・スタディーズ」と呼ばれています。