第2回 自然の中でのびのび過ごした幼年時代。中学生になって読書のとりこに
藤嶋先生は1942年、東京生まれ。太平洋戦争の戦況が悪化し、市街地への空襲が激しくなってきた1944年に現在の愛知県豊田市の山間部に疎開されました。
「豊田市といっても今でも本当に山奥の田舎で、まわりは山や竹やぶばかりでしたから、学校から帰ってきたら、毎日外で遊んでいましたね。学校も小さくて1クラス14人くらい。当時の友達とは仲がよくて、今も私が行くと皆が集まってくれます。
小学校の時のことで印象に残っているのは、担任の先生がとても面白い方で、『新聞とラジオはどちらが優れているか』というテーマで私たちに討論をさせたり、身の回りではまだ尺貫法(※2)を使っていたのにリットルやキログラムを教えてくださって「これが世界で通用する単位だよ」とおっしゃったりしたことです。のちのち理科に興味を持つようになったのはこんなところがきっかけかな、と思います。この先生(神谷勘一先生)は90才を超えた今でもまだお元気ですよ」
※2 尺貫法:長さの単位を尺、体積の単位を升、質量の単位を貫とする日本古来の度量衡法。[広辞苑より]
小学校を卒業した藤嶋先生は東京に戻ります。そこで本の面白さに目覚めました。
「田舎にいた時は、身近に本なんてほとんどなかったのですよ。それが中学生になった時東京に戻ってきたら、もうかなり戦争からの復興が進んでいて、田舎との違いにびっくりしました。東京には本もたくさんありましたから、読んでみたらもう面白くてたまらない。読書が好きになり、本のすばらしさを知ったのはまさにあの頃ですね。それ以来ずっと読書は私の趣味です」
藤嶋先生はどんな高校生だったのでしょうか。進路はどのように決められたのですか。
「スポーツ系の部活はやらなかったけど、化学の実験が大好きで、友達と一緒にいろいろな実験をしたものです。花火のもとになる炎色反応、あれが特に好きでした。実験にのめりこむうちに、化学のとりこになってしまって、大学進学を決める時にはもう理系以外考えられなくなっていました」
当時としては珍しい電気化学科のある横浜国立大学工学部に進学。大学時代はどんな勉強をされたのでしょうか。
「電気化学という分野は、もともと電気分解や電池を研究する分野でしたが、ちょうど私が大学生になった頃から、光を使ったり有機物を材料にしたりといった新しい動きが世界的に出てきていました。今でも覚えているのは、大学2年生の春休みに、私が言い出しっぺになって、朝永振一郎先生の『量子力学Ⅰ・Ⅱ』を自分たちで読んで勉強するために、友達5-6人と伊豆で合宿したことです。アルバイトをしたお金で本を買って、自炊しながら1週間くらいかけて全部読みました。
原子の世界ではニュートン力学が応用できないので、新しい力学体系、つまり量子力学が必要です。光とか電子とか、半導体とかいったものを扱うための理論式を扱うためには、量子力学がわからなければならない。だから、その基本中の基本を勉強しなきゃダメだよね、ということで、日本語のテキストではいちばんよくできている朝永先生の先生のテキストを選んで勉強したのです。研究者になりたい、という気持ちはこの頃から芽生えていたかもしれないですね」
そして、卒業後は東京大学の大学院に進学されました。
「実は、試しに国家公務員上級職の試験を受けたら合格してしまったのです。だから、もし東大の大学院に合格しなかったら官僚になろうかな、と思ったこともあったんですよ。結果的に合格することができ、写真化学、光工学の研究をなさっていた菊池真一先生の研究室に入りました」
藤嶋先生「理系・文系に関わりなく、若いこの時期に読む本が教養を創ります。そのために、いい本をたくさん読んでください」
山月記(『山月記・李陵 他九編』)
中島敦(岩波文庫)
走れメロス
太宰治(新潮文庫刊)
藤嶋先生:『山月記』も『走れメロス』も教科書に載っているくらいで本当に短い。でもその中にすごいドラマがあります。すぐ読めてしまうからこそ、何度も繰り返して読んでみたいですね。
三四郎、坊ちゃん、 こころ
夏目漱石(新潮文庫刊)
柿の種
寺田寅彦(岩波文庫)
雪
中谷宇吉郎(岩波文庫)
藤嶋先生 :夏目漱石はもちろんすばらしいですが、物理学者の寺田寅彦は夏目漱石の弟子にあたり、俳諧や文学にも造詣が深い。『柿の種』は関東大震災をはさんだ時期の随筆集ですが、論理的な目で日常の小さなことを書いているのがすばらしいです。さらに、中谷宇吉郎は寺田寅彦の弟子の物理学者で、雪の結晶の研究で有名です。この人も文章がすばらしい。漱石→寺田寅彦→中谷宇吉郎という流れで、ぜひ味わってほしいですね。