近代社会は対等な個人を想定しています。全員に平等な権利が与えられ、本人の能力で勝ちとる権利についてはその獲得のための競争に参加する権利が平等に与えられます。
差別の否定、つまり正義の追求という意味で、これはすばらしいことですが、現実の人間関係には「助ける/助けられる」という関係が含まれます。人間はみな傷つきやすい存在だからです。幼児、病人、障碍者、高齢者は助けを必要としていますし、誰もが少なくも一生のある時期にはそうなります。
こうした関係を支える責任やケアを基礎におく考え方を正義・権利を基礎におく考え方と対比しつつ、倫理を支える考えを研究しています。
不均衡な力関係を前提とする「責任原理」と「ケアの倫理」へ
私の関わっている研究主題のひとつは、「責任原理」と「ケアの倫理」です。前者は地球規模で進行する環境危機にあって、今生きている世代がこれから生まれてくる世代に生存不可能な地球を残さないようにする責任を説き、後者は人間関係をたがいがたがいに気づかいあう(ケアする)ネットワークとして築き上げようという倫理理論です。両者の考え方に、私はカントの「人間の尊厳」を結びつけつつ考えています。人間の尊厳とは、どんな人間についても自分の目的を実現するための手段としてだけ考えてはいけないし、他の人間も私をそう考えてはいけないという意味です。人間の尊厳がいう対等性と、助ける/助けられるの関係にある力の差との両方をどういうふうに組み合わせられるのかという問いが、今の私にとって課題のひとつです。
一般的な傾向は?
- ●主な業種は→教育、公務員、コンピュータ関連、薬品、金融、マスコミ、アパレルなど
- ●主な職種は→教員、公務員、システムエンジニア、編集者、事務職、営業職など
分野はどう活かされる?
哲学・倫理学の文献の読解を通して、主張の内容を明確にし、つねに理由を提示し、したがって反論には理由に基づいて論駁するといった能力が身につきます。これは特定の資格には直結せず、しかし社会人の誰にも必要な能力ともいえますが、理由を示して説明する(理由を示すことで説明責任を果たす)というどんな職種にも期待される能力が十分に身についていない人の多い日本社会では、哲学・倫理学をきちんと学んだ人間の評価されるところかと思います。
サブノートの空欄に入る語句を暗記するような勉強法は――それでも合格してしまう入試問題を出している大学が悪いのですが――やめましょう。学んだことを自分で筋道をつけて理解する、つまり君自身でサブノートを作れるような勉強法をすることが大学入学後の学びの準備になります。大学に入ったら終わりではありません。大学の卒業証書で一生生きていけるわけではありません。学んで考える人になりましょう。
関西大学文学部では、1年次に、専修で研究できる内容を紹介する「学びの扉」と文献を読む基礎を作る「知へのパスポート」などの授業を介して、哲学・倫理学に関心を持った学生が2年次に哲学倫理学専修に分属するシステムをとっています。
2年次には「専修研究 1・2」で論理学の基礎、哲学・倫理学の重要な理論と争点となるテーマを学び、「専修ゼミ 1・2」で文献を読み、レポートを書く訓練をします。「学びの扉」「専修研究」は専任教員全員が関わり、所属学生全員の力を伸ばす態勢を作っています。
興味がわいたら~先生おすすめ本
省察
ルネ・デカルト
私自身が、哲学を一生の仕事にしても悔いはないだろうと考えるきっかけとなった一冊。デカルトは学校を卒業するときにこう考えた。「学校で習ったことは、どれも本当らしくはあっても、本当に真理だとは確信しがたい。この宙ぶらりんの気分のまま生きて一生を終えるのではなくて、自分として絶対に疑い得ないことをつかむには、一生に一度はすべてを疑ってみなくてはならない」。――こうして『省察』は始まるが、これはまさに、普段当たり前と思われていることを改めて根本から考え直す哲学的思索そのものである。「窓の外をひとが通る。でも、帽子と衣服の下には自動人形が隠されているかもしれないではないか」――この思索の緊張を、ぜひ一度、味わってほしい。 (山田弘明:訳/ちくま学芸文庫)