創造と狂気の歴史 プラトンからドゥルーズまで
松本卓也(講談社選書メチエ)
「狂気」が正常で通常の状態からの逸脱を意味するとして、「創造」は正常または通常ではないものに肯定的な価値を認める言葉であると言えます。本書では、この両者の関係が古代ギリシアから現代までどのように考えられてきたかが概観されます。
詩の着想源としてのメランコリー、近代における統合失調症の出現、精神の崩壊と引き換えに真理に到達する悲劇の天才としてのその患者像、今日における病像の変化等のトピックを辿るうちに、読者は、問題にされているのは狂気観の変遷(「狂気」なるものを各時代、各文化はどのように捉えてきたか)よりもむしろ狂気そのものの変化、ひいては社会や文化の変容なのだと気づくことになるでしょう。
フランスで、フロイトの精神分析はどう展開されたか
分析家の解釈をきっかけに察知される何か
心身の不調については古来さまざまな対処がとられてきました。19世紀末のウィーンではフロイトによって精神分析が神経症治療の手立てとして発明されました。
精神分析の実践は、自由連想という方法的態度を取り、心に浮かぶ思いを余すところなく話すことから始まります。たとえば患者は、注射やデュセンテリアという病気をめぐる会話を内容とする夢を思い出し、そこから、先日聞いた急患対応の逸話やある麻薬中毒者の運命へ、また音声上の類似によって「ジフテリア」へと連想を広げます。
くだらない、恥ずかしい、傍にいる分析家(療法家)に失礼、といった気持ちを排して、口にしにくいこと、不快さゆえに忘れようとしてきたことも言葉にしようとします。意識的なその努力にもかかわらず連想で取り残される何か、意識がまさに知らない間に避けている何かの存在は、分析家の介入、とくに解釈をきっかけにはじめて察知され、問題として同定され追究されることになります。
分析家の無意識という問題
20世紀に精神分析はヨーロッパやアメリカ大陸を中心に世界に広がりました。私は、フランスで人文学の諸分野を席巻した構造主義という思潮がどのようにその発展に関わったかを研究しています。
分析家の無意識をめぐる当時の言説からは、解釈と分析家の恣意的な操作(意識の産物)を区別することを正当化し、自由かつ不自由に自由連想するものとしての人間という観念を哲学史上で擁護する可能性を引き出せるのではないだろうか。とくにそうした関心と期待を抱いています。
「20世紀後半フランスのフロイト派における構造概念の用法と応用精神分析の展開の解明」
Q1.18才に戻ってもう一度大学に入るならば、学ぶ学問は? 西洋近代思想史もしくは科学史(地域問わず)。学問領域ではありませんが、言語もいくつかきっと学びます。 |
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Q2.日本以外の国で暮らすとしたらどこ? フランス。研究のための環境が整っているから(研究と生活は私にとって切り離せないものなので)。カナダのフランス語圏にも興味があります。 |
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Q3.大学時代の部活・サークルは? 吹奏楽部。サックスを吹いていました。カルテットがとりわけ好きでした。 |
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Q4.研究以外で、今一番楽しいこと、興味を持ってしていることは? 金沢21世紀美術館での作品鑑賞。気になる展示があると、ふらりと行って楽しんでいます。あとは色々な豆でのフムス作り。 |