第1回 けがをさせた人が責任をとるのか ~「過失」があれば責任を負う
事件発生!
〔放課後…C高校敷地内の野球グランドで〕 直人(野球部員) : お~い、浩二。部活始まる前に、少しバッティング練習やりたいから、投げてくれよ。
浩二(野球部員) : え~っ。この前のミーティングで、コバセン(小林先生。物理の教師。野球部顧問)が、「危ないから、全体練習始まる前に、勝手にバッティングするな。」って説教してたじゃん。見つかったらヤバくね?
直人 : 大丈夫だって。ほんの15分くらいでいいからさ!
和美(野球部マネージャー) : なになに。二人で個人練習?頑張って!応援してる!私も、すぐにグランド行くから。
浩二 : 〔心の声:おっ、和美の前で、かっこいいところ見せるチャンス!直人を空振りさせたりしたら…ムフ〕 じゃあ、やるか。
直人 : 〔心の声:和美のさっきの励ましは、浩二じゃなくて、オレに対してだよね! テンションあがるわ~〕 よし、行こう。
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ところが事件が起こります。浩二が投げたカーブを打ち損ねた直人のボールが、グランドを越え、下校しようとしていた山本君(天文部)の額を直撃!救急車を呼ぶハメに…。不幸中の幸いで、命に別状はなかったものの、5針を縫う大けがとなってしまい、治療費が30万円かかってしまいました…。
さて、ここで、みなさんに問題です。山本君の治療にかかった30万円の最終的な負担を、法的には誰が負うと思いますか。
私たちは、時々、事故に巻き込まれます。確かに普段は、平和に暮らしているかもしれません。しかし私たちの周りには、実は、様々な危険(リスク)が潜んでいるのです。そして、それが時に顕在化します。交通事故、けんか、盗難、盗撮、いじめ…。もしかしたら、被害者としてだけでなく、予期せず加害者となってしまうかもしれません。そしてその際に、何らかの損害(けがをする、財産を失う、精神的ショックを受けるなど)が発生することもあります。では、発生した損害を誰が負担するのでしょうか。本章では、「顕在化した損害を誰が負担するのか」をテーマに、法の世界を少し覗いてみることにしましょう。
直人は責任を負うのか? ― 一般的な不法行為責任
みなさんの中には、浩二を個人練習に誘い、実際に山本君にボールをぶつけて怪我を負わせてしまった直人に責任を負わせるべきだ、と考える人が多いかもしれません。
これに関し、民法には、次のような規定があります。
【民法709条】
故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。
実は、この条文は、日本の民事裁判において、一番用いられている条文ともいわれている、重要な条文です。内容は非常に簡潔であり、おそらく、法学を専門的に学んでいない人でも理解できる内容だと思いますが、ここで注目してもらいたいのが、「故意又は過失によって」という文言です。これは、次の2つの意味を含んでいます。
まず、「故意又は過失」ですから、「故意」か「過失」のどちらかがあれば、賠償責任を負うということです。責任を問われた直人は、「わざと(=故意で)やったんじゃないんだ!」というかもしれません。しかし、わざとでなくても、直人に「過失」が認められるのであれば、やはり民法上の責任を負わなければならないのです。ちなみに、「過失」とは、不注意のことを意味します。結果を予見することができるのに、それを回避する義務を怠ったのであれば、そこに「過失」が認められます。刑法の世界では、「故意」がないと犯罪にならないものがあります(例えば、「詐欺」や「殺人」)が、民法709条で賠償責任に問われる場合、故意または過失のいずれかが認められれば責任に問われることになります。
もう1つ、これを反対から言えば、「故意又は過失」がないと、賠償責任には問われないということです。これを「過失責任主義」といいます。そもそも、近代以前は、「損害が生じたのは、こいつ(の行為)が原因だ!」という関係さえ認められれば、故意や過失の有無に関係なく、原因となった人が責任を負うという考え方(原因責任主義)が有力でした。しかしそれでは、わたしたちの行動は委縮してしまい、積極的な社会・経済活動をすることができなくなってしまいます。そこで、明治期の民法典編纂の時に、過失責任主義が採用されたのです。過失がなければ責任を負わなくてよいということにして、わたしたちの社会・経済活動の自由を最大限に保障しています。
結局、直人に賠償責任が認められるかどうかは、直人に「過失」があったかどうかにかかってくるのです。もし直人に「過失」が認められない場合は? その場合には、不幸な事故であっても、被害者である山本君自身が、治療費を負担せざるを得ません。
つづく
第2回 親や学校は責任を負うのか
◆遠藤先生執筆 「第9章 山本君、ケガしたってよ」
第9章では、「損害賠償」の世界を取り上げています。私たちは、故意(わざと)または過失(不注意)で他人の権利などを侵害した場合には、損害賠償しなければなりません。そして、損害賠償の問題は、私たちの社会で、様々な場面で登場します。自動車事故、名誉棄損、プライバシー侵害、公害、医療過誤、いじめ・・・。その際に、誰が、どのようなことを前提として、どれくらいの額の損害賠償を負担するのが適切なのかについての仕組みづくりは、被害者救済のために、とても重要になります。本章では、学校事故を例にして、責任の主体が誰かを探っています。責任の広がり(または、その限界)を感じ取ってもらえればと思います。
また、「顕在化したリスクの負担」という視点からは、解決方法は、損害賠償に限りません。保険、被害者救済制度、社会保障など、様々なアプローチがあります。事故が起きたら、起こした人(加害者)が責任を負え!という発想ではなく、誰にでも起こるリスクなのであれば、みんなで負担し合いましょうという発想です。その仕組み(ルール)作りは、法学部で専門的に学びますが、本書で、損害賠償制度を「相対化する」という見方もしてもらいたいです。また、誰がどのようなリスクを負担するのが、社会にとって有益なのかというバランス感覚が大切であるということを感じとってもらいたいと思います。
※尚、本記事は、先生の執筆記事からの一部紹介です。
ヴェニスの商人
ウィリアム・シェイクスピア 福田恆存:訳(新潮文庫刊)
本作品の主題とは別に、法学的な観点からも素材として挙げられることの多い作品です。シャイロックとアントーニオの間で交わす「契約」、海難事故、ポーシャが行う「法の解釈」などが興味深いです。本でもDVD(映画)でも劇でもいいですから、一度、作品に触れてみることをお薦めします。
居住福祉法学の構想
吉田邦彦(東信堂)
例えば、みなさんが、震災で家が倒壊して、住むところがなくなったとしたらどうしますか? 自分の家の財力で、新たな住まいを確保しますか? では、財力がない人はどうすればいいのでしょう? 社会で助け合うべきですか? 民法研究者である筆者が、市場主義の現状を批判し、「居住福祉法学」を構想します。
レインメーカー
フランシス・F・コッポラ監督作品。白血病に罹患した患者が、保険会社から保険金の支払いを拒絶されたために、治療を受けられずに死亡します。保険会社は、ある保険約款条項を盾に正当性を主張するのですが・・・。1997年制作。マッド・デイモン主演。ジョン・グリシャムの小説『原告側弁護人』の映画化。
白い巨塔
山崎豊子(新潮文庫刊)
財前と里見という2人の対照的な医者を軸として展開される、医学界の腐敗を鋭く追及した社会派長編小説。何度もテレビドラマ化されています。ストーリーの中の、医療過誤訴訟が損害賠償・民事訴訟の参考になったり、また、医学部内部の権力闘争が、選挙制度や組織法とも通じる部分があったりと、法学を学ぶ者にとって、様々な材料を提供してくれます。
◆広く民事法に興味があれば
『ハゲタカ』(真山仁著、講談社文庫、NHKで大森南朋主演でドラマ化)、『ウォール街』『ウォール・ストリート』(どちらもオリバー・ストーン監督)、『キング・オブ・マンハッタン 危険な賭け』(リチャード・ギア主演)、『金融腐蝕列島 呪縛』(役所広司主演)など企業買収、乗っ取り関係の作品は多数あります。
◆民法の中でも「家族」ついて興味があれば
『家栽の人』(毛利甚八:作 魚戸おさむ:画、小学館ビッグコミックス)家庭裁判所判事を主人公とし、家事事件、少年事件について描かれています。他に、『クレイマー、クレイマー』(ダスティン・ホフマン主演)など。