第3回 『論理哲学論考』の2つ目のテーマ「神・信仰・倫理問題」~語りえないことには沈黙しなければならない
『論考』の2つ目のテーマは、神・信仰・倫理の問題です。言い換えると、言語が世界の有様を事実として明晰に記述できるとしても、では事実と思えないようなことを僕たちはどんなふうに語れるのか、という問題です。
つまり、言語で語られうる世界の外にある、「神」の問題と言うことができます。ウィトゲンシュタインの『論考』での解答はこうです。
言語は事実を記述するための道具なのだから、そもそも事実として記述できない神・信仰・倫理について語ることにはムリがある。しかし語ることはできなくても、たとえ語ることが無意味だとしても、神という言葉を使って心の底から言いたくなるものはある、そしてそれついて我々は沈黙すべきだと。
それを示す彼の有名な言葉が、「語りえないことについて、人は沈黙しなければならない」というものです。要するに解ける問題と解けない問題とぎりぎりのところ切り分けて、議論しました。しかし、そのために彼の哲学としては、ある種の矛盾を抱えることになります。『論考』を完成した直後から、この重要だが解けない部分について彼は悩み、それが後期の哲学の再開につながったと考えられます。
ウィトゲンシュタインのもう1つの重大問題、「私」の根源を訪ねる=独我論
前期の著作『論考』の抱えていた、もう1つの重大なテーマが実はあります。「独我論」です。ウィトゲンシュタインは、客観的な世界が存在していることは科学言語で語り得ると言っていますが、実は本当の意味で存在するのは、語る主体である「私」だけなんだという思いが、そこには強烈に込められています。これを「独我論」と言います。
つまり、今、この言葉を誰がしゃべっているのかというと、ほかならぬ「私」なんだと。しかも「私」がしゃべっている言語が形作っているこの世界は、「私(だけ)」が見ている世界なんだ、というのです。これが独我論の主張の重要な部分です。
ただしこの「私」は、世界の中に現実に存在する「私」じゃなく、その中で総ての現象が現れる、世界を包み込む精神のようなものです。先に述べた「語りえない存在としての神」とどこか似た存在ですね。語りえない存在としての「私」のことです。
ウィトゲンシュタインの「独我論」は、難解でよくわからないと批判を受けてきました。ウィトゲンシュタインは独我論の説明の中で、「私の言語の限界が私の世界である」「世界が私の世界である」と言っています。人を寄せつけない、とても排他的な感じがする学説ですね。
彼はこの独我論の主張についても、原理的に「語りえない」ものとして見事に封印しています。「語りえないことには、人は沈黙しなければならない」という彼の有名な言葉の通り、非常に禁欲的な態度を貫いているんです。
しかし、今でもこの独我論は現代哲学の認識論に大きな影響を与えています。多くの人を惹きつける「自我」「私の根源は何か?」という論争は終わっていません。
ウィトゲンシュタイン 没後60年、ほんとうに哲学するために
鬼界彰夫、永井均、飯田隆、岡本賢吾、野家啓一、戸田山和久、山田圭一、大屋雄裕、田中久美子ほか(河出書房新社)
法哲学者は「言語のゲーム、ルールの言語」という項で、ウィトゲンシュタインの言語理論が、法律の世界でどのように見られているかを述べている。また建築設計の専門家は「ウィトゲンシュタインの建築問題」の中で、哲学者ウィトゲンシュタインの建築家としての唯一の仕事として知られるストンボロー邸のユニークな空間構成について述べている。哲学以外の分野でウィトゲンシュタインがどのように見られているかに興味を持つ人へお勧めしたい一冊。他分野も含めた国内のウィトゲンシュタイン研究者による最近の研究動向と発言で構成されている。
ウィトゲンシュタイン〈1〉〈2〉―天才の責務
レイ・モンク 岡田雅勝:訳(みすず書房)
天才哲学者の奇行のエピソードも含め、ウィトゲンシュタインの人生に興味を持つ人に最適の書。著者はウィトゲンシュタインの死後まもなく生まれた哲学研究者だが、ウィトゲンシュタインに関する最も信頼できる伝記。上巻〈1〉は世紀末のウイーンの大富豪の家に生まれ、工学の勉強をしながら『論理哲学論考」を完成。片田舎の教師を経て、ケンブリッジ大学で再び哲学研究を始めるまでを描く。ケンブリッジ大学でウィトゲンシュタインを出迎えた近代経済学の祖、ケインズは知人に宛て「さて、神が到着した」と感動的な手紙を書き綴っている。下巻の〈2〉は2作目の著作「哲学探究」を完成させその死まで後半生を描く。