第2回 『論理哲学論考』とは何か?~哲学の問題はすべて解けたとこの本は言った
ウィトゲンシュタインは生涯をかけて前期『論理哲学論考』と後期『哲学探究』の2冊の本を書きました。哲学の問題はすべて解けたと宣言した前期の主著『論理哲学論考』(以下、『論考』)とは何か。説明しましょう。
この本のテーマは2つあります。(1)世界と言語、(2)神・信仰・倫理です。それが哲学のすべての問題であると考えたということです。1つ目のテーマは、私たちの使う言語はなぜ世界の有様を記述できるのかについて書かれています。
例えば「木星の周りを衛星が回っている」という、この漢字と平仮名混じりの言葉は、なぜ宇宙に関する法則や世界の有様(事実)を映し出すことができるのでしょうか。
私たちは、「秀吉が大阪城を築城した」と歴史的な事実を語ります。「秀吉」「大阪城」という1つ1つの言葉の獲得は、鳥の鳴き声、霊長類など、他の高等動物でも広い意味ではできます。しかしそれだけでは、世界の事実を記述できません。語彙が増えるだけでは、世界について何も表現できないのです。人間の言語の決定的に優れていることは、論理的な推論ができることです。
(前提)秀吉が大阪城を築いた (結論)ゆえに秀吉は何かを築いた という論理的推論ができます。この推論の背景には、ある行為者x が対象y に対して何らかの作用X をなした、という文の意味の抽象的な論理的骨格(それをウィトゲンシュタインは「論理形式」と呼びました)が存在します。
この、「 xが yを Xした」という言語の論理形式は、「 x(秀吉)が y(大阪城)をX(築いた) 」という具合に、世界で起こった具体的なできごと(事実)に当てはめることができます。つまり言語は、世界の有様と論理形式を共有しているからこそ、世界を記述できるわけです。
ウィトゲンシュタインは、それをはじめてはっきりと示してみせました。当たり前のようでもこれは17世紀前半のガリレオの「人間はどうして数学(それは人間の言語の一部です)を用いて世界を描写できるのか」という問いにつながるもので、ガリレオのような「神が宇宙という本を数学という言語で書いたからだ」といった神話的説明によらない説明は『論考』によって初めて示されたと言っていいでしょう。人類は世界と論理形式を共有する「科学的言語」を使えるからこそ、世界を記述できるのであって、そのため科学的な発展を遂げたと当時ウィトゲンシュタインは考えたのでした。しかしのちに彼はこの考えを根本から否定します。
星界の報告
ガリレオ・ガリレイ 山田慶児、谷 泰:訳(岩波文庫)
前期ウィトゲンシュタインの論理学・分析哲学・言語哲学的成果は、鬼界先生の講義にもあるように「人類は世界と論理形式を共有する『科学的言語』を使えるからこそ、世界を記述できるのであって、そのため科学的な発展を遂げた」という考え方となる。それは、ガリレオにして、「神が宇宙という本を数学という言語で書いたからだ」とした神話的説明でしかなかったものに、初めて科学的な説明を通してその転回を図った理論でもあった。
その際の科学的精神とは何か。今から400年前日本で徳川幕府が開かれたその時代の1609年、イタリアの天文学者ガリレオは、自分で望遠鏡を製作、月を観測し、木星の衛星を発見した、その報告として、触れてみよう。その頃からガリレオは地動説に言及することが多くなり、異端審問で追求されることになる。その際、「それでも地球は回っている」とつぶやいたのは、有名であるが、それは、科学的に考えるということは、死を賭すくらい危険な行為とされる社会であったということを意味する。しかし、もう一方でガリレオは、「人間はどうして言語=数学を用いて世界を描写できるのか」という問いには答えは出せなかったことも意味する。言語=数学を用い、天体観測を通せば、宇宙の法則や世界のありさまを記述できると考え、そして実行し成功、まさに科学の方法を開拓したガリレオだが、その問いに答えは出せず、答えが出たのは、それから300年後、今から100年前であった。