オーストリアのウィーン生まれのユダヤ系で、イギリス・ケンブリッジ大学で教鞭をとった、20世紀最大ともされる哲学者ウィトゲンシュタイン。彼の言語と論理の哲学は、その後の哲学のみならず学問全体、さらには現在あるコンピュータの誕生にも大きな影響を与えたとして知られています。ウィトゲンシュタインの思想、生きざまはこれまで謎に包まれていましたが、幸いなことにここ20年ほど、彼の未公開の遺稿が公開されるようになり、急速に明らかになってきています。
鬼界彰夫先生は、この膨大な遺稿を読み直し、二つの大戦をはさんだ約40年の哲学者(一時期は小学校教員であった)としての仕事として、『ウィトゲンシュタインはこう考えた』(講談社現代新書)を、書きあげました。大哲学者の思想の立ち上がる背景を、テキストに真正面から向き合うことで明らかにした、新書にして417ページの大著は、哲学の研究の仕方も示し、西洋哲学のみならず哲学を学ぼうとする誰をも魅了してやみません。今回、そんな本にオーサービジットとして挑んだのは、六甲学院中・高校の3人。一人の教師であり研究者が、どう生きることで、新たな哲学を孵卵(ふらん)させることができたのか、そして世界を変えるような知とはどのようにして生まれてくるのかを感じた、またとない2時間となりました。
(六甲学院中学・高等学校オーサービジット)
第1回 ウィトゲンシュタインへの扉~20世紀最大の哲学者の歴史から
私は筑波大学で哲学を研究しています。まず高校生がウィトゲンシュタインを読んでみたいということに少し驚いています。しかし今や「倫理」の教科書にも登場するまでに認められた哲学者になりました。私自身の高校時代、名前を聞きかじったくらいで、「極端なことを言っている人だな」という印象しかありませんでした。本格的に読み、研究を始めたのは大学院からです。それ以降長い間、ウィトゲンシュタインの謎めいた魅力の虜になっています。
彼は生涯をかけて2冊の本を書き、そこに彼の思想、仕事のほとんどがあります。1冊目が『論理哲学論考』。この本は論理と言語の哲学について書かれています。言語哲学とは「人間の本質とは何か」という哲学的な問いに言語の観点から迫った20世紀の新しい哲学で、現代哲学の大きな流れの一つです。完成は、ちょうど今から100年前にあたる1918年29歳、第1次大戦終了時でした。
岩波文庫にもなっている『論理哲学論考』は、序文から読んでいただきたい。わからなくても、飛ばし読みしてもいいです。序文は簡単に言うと、哲学の問題はこの本ですべて解かれてしまったと書かれています。その彼の文体に触れるだけでも価値があります。
あらかじめ一言だけ言っておくと、『論理哲学論考』の言語哲学は、今日の計算機科学、つまりコンピュータサイエンス、および人工知能の一つの源流と言っても過言ではありません。このことは、おいおい説明しましょう。
2冊目の『哲学探究』は、1929年着手し完成は1946年、第2次大戦直後の57歳の時でした。『哲学探究』のどこがすごいか。『論理哲学論考』で述べた論理哲学を徹底的に破壊したことなんです。そこでは、「言語ゲーム」というものを用いて、僕らが日常使う不完全な言語こそが本当の言語なんだという見解に至りました。
1冊目と2冊目に共通するのは、学説に大きな違いを持ちながら、どちらも「言語」という観点から人間の本質を問うたことです。それは20世紀最大の哲学的な成果の一つと考えられています。
彼を知るには、1冊目=前期の論理哲学、2冊目=後期における問い直しと再構築、そしてその間の中断と挫折の10年の、3つの区分に分けて見ていくことが鍵となります。ウィトゲンシュタインの生涯を簡単に年表にまとめてみました。
ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタインの年代記~生いたち、いかに生きて死んだのか?
1889年 オーストリア・ウイーンで生まれる。両親の方針で家庭教師により教育を受け、小学校には通わなかった。
1904年 技術面の教育に重点を置いたリンツの高等実科学校(レアルシューレ)で3年間の教育を受けた。このとき、同じ学校の同学年だったのはアドルフ・ヒトラーであった。
1906年 機械への関心が高く、ベルリンのシャルロッテンブルク工科大学(現ベルリン工科大学)にで機械工学を学ぶために進学。08年にイギリスに渡り、マサチューセッツ大学工学部で航空工学の研究に専念、凧の実験から飛行機のジェット推進プロペラエンジンまで研究を進めた。この間、純粋数学から数学の基礎論に関心が向かっていくことになる。
<前期>
1911年(22才) ドイツの数学者フレーゲにより生み出された記号論理学を哲学的に研究するためケンブリッジ大学で教鞭を取る哲学者ラッセルを訪ね、入学た。ウィトゲンシュタインは哲学について専門の教育をまったく受けていなかったが、ラッセルは彼の類い稀な才能を認めた。
1912年 『論理哲学論考』として結実する研究を開始し、従軍中も継続。
1914年 第一次世界大戦(~1918年)が勃発し、8月7日にウィトゲンシュタインはオーストリア・ハンガリー帝国軍の志願兵として従軍。
1918年 第1次大戦中に、『論理哲学論考』の最終原稿を完成。イタリア軍に捕虜になった際にも、背囊(将校が背負うカバン)に、その草稿をひそませていた。
1920年(31才) 『論理哲学論考』出版される。(前期の終焉)
<挫折期>
「哲学の問題はすべて解けた」と思ったウィトゲンシュタインは、小学校教師として生きることを決断し、教員免許を取得後、ウィーン郊外の山間部の小学校の教師として赴任。僻地の小学校を転々とする。
1926年(37才) 熱心な教師だったが、熱心さが昂じ生徒に体罰事件を起こし、親が抗議する排斥運動にまで発展し、やむなく依願退職する。
<後期>
1929年(40才) 自分の生と『論理哲学論考』の哲学の双方に疑問を抱くようになり、哲学を再開するためにケンブリッジ大学に戻り、ここで初めて学位を取得。『哲学探究』として結実する後期の研究が始まる。
1939年 ドイツ軍がポーランドへ侵攻したことが第二次世界大戦始まる(~1945年)
1946年(57才) 後期の主著『哲学探究』が完成するが、彼はそれを出版しようとしなかった。
1949年 前立腺がんと診断される
1951年(62才) 死去。最期の言葉は「すばらしい人生だったと伝えてくれ」だったという。
1953年 弟子たちの手により『哲学探究』が出版される。
自分の学説と生き方を一致させる哲学者
なぜ彼は一度挫折後、哲学を再開したのか、私(鬼界)は、それをずうっと考え続けています。それは自分の哲学の間違いに気づくだけでなく、いかに生きるかを含めた真剣な問いかけをしたからじゃないでしょうか。
歴史上、自分の学説と生き方を一致させた最初の哲学者はソクラテスです。では哲学者以外では、そんな人がいるでしょうか。例えば、イエスキリスト、孔子がそうです。イエスは本を書かず(福音書は弟子が書いた書)、生きることを説きました。孔子もそうです。『論語』は弟子たちによってまとめられました。
ソクラテスもその言行は学説でなく自身がよりよく生きるための問いかけでした。ただし弟子のプラトン以降、哲学は学問になり、自分自身の生き方を問う営みとしての哲学を哲学者はだんだん忘れてゆきます。ウィトゲンシュタインは、ソクラテスのような、哲学的な考察と自分自身の生が不可分であるような哲学的営みを復活させた哲学者の一人だということができると思います。
ウィトゲンシュタインはこう考えた 哲学的思考の全軌跡1912~1951
鬼界彰夫(講談社現代新書)
この本は、20世紀を代表する哲学者の一人であるウィトゲンシュタインの生涯にわたる哲学的思考の軌跡を一種の哲学的ドラマとしてたどるものである。その過程で考えられた哲学的内容は、その後の二十世紀の論理観、数学観、科学観、言語観に大きな影響を与え、現在の私たちにも直接・間接に様々な影響を与えているが、それが考えられた時点では、L.ウィトゲンシュタインという一人の人間の、自分がこの世界で生きてゆくために、世界と自分の関係を理解したいという切実な欲求と不可分な形で生み出された。どのような壮大で抽象的な哲学的理論も、それが生み出されるのは生きることに悩み考える一個の人間の魂においてであるということ、それゆえにこそ哲学には価値があるということをこの本から感じ取ってほしい。
読み進める中で、自分自身の経験や思考に即して考えることができ、興味を抱く部分を深く読み、そこで考えられている問題について考えてみてほしい。この本で描かれているウィトゲンシュタインの哲学的な生(考えながら生きたその歩み)とその過程で生み出された哲学的内容の、どの点にどのような興味をあなたは持つのか? それはなぜか? また読んで疑問を抱く部分があれば、自分の疑問を問いという形で表現し、著者やウィトゲンシュタインがそれに対してどのように答えるだろうかについて考えてみることもよいだろう。