文芸作品から、38度線で隔てられた朝鮮半島の人々の心情を読み解く
政治・経済共同体が分断された
私が研究しているのは20世紀前半の朝鮮半島で書かれた文芸作品です。大学の授業では、小説を読む時間的余裕がないので、漫画を資料にして学生たちと話をしています。
朝鮮半島が分断されてから70年程経ちます。それまで数百年間一つの政治・経済共同体であった地域が分断された時、人々はその思いもよらない事態をどのように受け止めたのでしょうか。
北の鉱物と南の食料の流通が止まった
1945年の秋にはもう、朝鮮半島の真ん中は、徐々に封鎖されようとしていました。その頃韓国側で新聞に掲載された風刺漫画には、二人の女の人が七輪を前にとほうにくれている場面が描かれています。二人の間には「38度」と書かれた分厚い石の壁があります。
「南」と書かれた側の女の人の後ろには「米」と書かれた袋がたくさんありますが、「炭がないと...」と困っています。「北」と書かれた側の女の人の後ろには「木炭」と書かれた袋がたくさんありますが、「米がないと...」と困っています。
朝鮮半島は本来、農事に適した南部で食料を生産し、気温の低い北部で鉱物を採取して、相互に流通させることで生活が営まれていました。しかし38度線の封鎖は、その流通を止めてしまいました。その結果どちらの側でも、当たり前の生活ができなくなってしまったのです。
見えないけれど分厚い壁、38度線
現在も朝鮮半島の分断線には、「ベルリンの壁」のような石の壁はありません。草原と鉄条網が広がっているだけです。事実として石の壁があるわけではありません。しかし、生きるために必要なものが38線の向こうに確かにあるのに届かない、その現実の前に立ちすくむ人々にとって38度線は、分厚い石の壁と感じられたのです。
そのような心の目に映る景色は、事実を扱う歴史ではなく、文芸作品で扱われる領域です。思いもよらない事態に直面した人々の心の目に映った景色を見ること、それが現在を理解するためのひとつの手がかりになると考えて、私は研究を続けています。
「20世紀初期日本大衆小説の朝鮮文学への影響様相」
韓国に1年間交換留学後、地方鉄道に就職し、広報担当として現場で観光客の対応にあたりつつ、地方鉄道の運営に取り組んでいる卒業生がいます。外国からの観光客を迎え入れるには、相手の文化的基盤、ものの感じ方についての知識がないと対応が難しいものです。現地の映画などの文芸作品に多く接し、相手の考え方を推し量り、気持ちを汲み取る力のある者が対応することで、地方鉄道の利用も円滑に行われます。語学力はもちろんですが、外国語を使ってどのような対応が可能なのか、質が問われます。その点で、交換留学の経験と多くの文芸作品に接した知識の蓄積を生かした業務を行っています。
越えてくる者、迎え入れる者 脱北作家・韓国作家共同小説集
ト・ミョンハク、イ・ジミョン、ユン・ヤンギル、キム・チョンエ、ソル・ソンア、イ・ウンチョル、李青海、李平宰、鄭吉娟、尹厚明、李星雅、方珉昊、愼珠熙、訳;和田とも美(アジアプレス・インターナショナル 出版部)
生きる苦しさに耐えられず、北朝鮮から脱出する人々がいます。多くは韓国で定住し、2016年には3万人を超えました。この本は、北朝鮮から脱出してきた人が韓国で書いた小説6編、韓国の人が北朝鮮の人々との関わりを書いた小説7編を翻訳したものです。
その一つに、北朝鮮から脱出してきた20代の人が書いた『父の手帳』という小説があります。10代後半に家族で北朝鮮から脱出し、第3国を流転するうちに母・姉と生き別れになりました。韓国に来てから大学に入学した後、父が病死し、たった一人になります。その自分のことを題材にしています。
韓国と北朝鮮は、たかだか70年あまり前までは、一つの共同体だったところです。言葉も同じものです。しかし70年あまりの間に、韓国と北朝鮮は、まったく違った体制になっています。言葉は通じるのになじめない暮らしを続ける青年の心のうちがつづられた文章からは、縮めようのない周囲との距離間が伝わってきます。日本の10代の人たちにも、伝わるものがあると思います。