第6回 後期の主著『探究』もその後の思想に大きな影響を与えた
ウィトゲンシュタインの後期の主著『探究』も20、21世紀の思想に大きな影響を与えています。例えば、米国の科学哲学者・科学史家のトマス・クーンは、1960年代に新しい科学観を提示したのですが、そこで彼は科学者たちが科学を実践するにあたって共有しているのは言葉で明確に示された概念の定義や『探究』の規則でなく、明示的に言語化されるとは限らない、個別の判断例に基づく価値観、手続き、基準であると主張し、それを「パラダイム」と呼びました。科学革命とは単に科学理論が変化することではなく、科学者が共有するパラダイム自身が変化することだ、というのが彼の科学観のポイントですが、彼の「パラダイム」という概念はウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という概念に大きく影響を受けています。
今日なお輝きつづける後期哲学
まとめましょう。ウィトゲンシュタインは、まず19世紀まで哲学の根本的問題であった「人間の本質とは何か」という問いを、「人間にとって言語とは何か」という問いとして考えました。そのために、彼は非常に厳密な世界を築き上げました。それで、人間は言語によって世界を十分理解できると考えました。しかし、前期の『論考』完成直後から、彼は自己を偽って理想を演じることに悩み続けました。その中で、「自分の築いた理論と自分自身との矛盾」と向き合い格闘する中から後期の考え方が生まれました。『探究』に代表されるウィトゲンシュタインの後期哲学は、今日なお独特の輝きを放ち続けています。
おわり
Q:20世紀の言語哲学とコンピュータがこんなにも密接につながることが驚きです。今、大学の計算機科学などの学科ではウィトゲンシュタインを教えるんですか。
A鬼界先生:教えます。本来、計算機科学をきっちりやるには、『論考』の概念を知らないことには話にならないからです。今の科学基礎論の学会では、計算機科学者、論理学者、ウィトゲンシュタイン研究者が一緒になってシンポジウムを行ったりもします。しかし、近年教えない大学が増えてしまっています。それは残念ですし、日本の計算機科学や、IT(情報技術)にとってはあまり良いことではないかもしれません。
Q:ウィトゲンシュタインの考えなどの上にあるコンピュータと今の最新のコンピュータとの違いはなんですか。
A鬼界先生:基本的変わらないと思います。違いがあるとすればそれは、記憶容量と計算スピードが格段に上がったことだけです。今のコンピュータは、1秒間に数億回もの計算をするから、すごいことをやっているように見えるだけなんです。ただ、参考までに言うと、近年の人工知能の考え方を支えているプログラムは機械学習です。ここで出てくる深層学習の考え方は、人間の脳細胞のネットワークをモデルにしていますので、こちらは、新しい動きですが、それもこれまでの考え方の上に乗っていることには変わりはありません。
Q:コンピュータに心が宿るようになるでしょうか。
A鬼界先生:人の心をどう捉えるか、ですね。ある種の素振りを感情プログラムとして入れると、適切なときに泣いたりできるようになるのでしょう。それは心のシミュレーションと言ってよいかと思います。